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あまい洋々

『biside U わたしいましたわ』に寄せて

オノマリコ

 

 あまい洋々の主宰、結城真央は「少女」にこだわる。

閉塞的な空間にいて「大人」に消費される「少女」が、外部からきた同世代の他者(これも少女)に出会い、自分の力で立ち上がり、走り出す。「ガール・ミーツ・ガール」、少女たちが手を取り、何かから逃れる、その過程を描くことにこだわる。結城の過去作(「あまい洋々」創立前に作・演出を務めたアルココチ『どこまで逃げても消費されてしまうなら、わたしにあなたを消費させてほしい。今日のごはんはわたしが作るね。』、箱庭演劇祭にエントリーしたあまい洋々『わたしを勝手に沈めるな!』)を二作見たことがあるが、それもどちらもそういう話だった。そして同じテーマを扱っているからこそ、その掘り下げ方はどんどん深くなっている。少女たちが「逃げる」までが精一杯だった初作に比べて、今作では彼女たちの「自立」が描かれる。

 

 舞台上には四角い木枠の立方体がある。それは鳥籠のようにも見える。登場人物を乗せて、それは回転する。その枠組みの中に、空洞のような内面をかかえた人間が、人形のように身体を横たえている。波多野伶奈演じる「なおみ」は、カーディガンの胸元にある薄紅のリボンを結わえられ、ロボットが起動するように立ち上がる。

彼女のカーディガンのリボンを結わえた登場人物もまた「なおみ」(俳優:すいみん)という。こちらの

「なおみ」は、多くのシーンで脚立の上から物語を見つめる。その視線から、この作品は「なおみ」による回想録であるということがわかる。

 「なおみ」は谷崎潤一郎の『痴人の愛』の登場人物「ナオミ」を原型に、現代の日本を生きる人間の設定にされている。16歳の「なおみ」は、自我のうすい少女のように描かれる。彼女はアイドルめいた活動をしているが、他者の望むまま、熱烈なファンに「結婚しようか」と言われるまま「はい」と頷く。

 『痴人の愛』より幾分か情けなさを強調されている「譲治」(俳優:谷川清夏)は、「なおみ」を「なおみちゃん」と呼び、『マイ・フェア・レディ』の映画を見せる。そして「ちゃんと教育を受けさえすれば立派なレディになれるんだ。」「環境と努力で人はどうにでも変われると、僕は思う。」と語る。しかし彼は、「なおみ」の中の空洞には気が付かない。兄弟の多い貧困家庭で親から顧みられることなく育ったとおぼしき「なおみ」に、彼は住処と洋服と教育を与える。そして、彼女の所有者として、バスルームで彼女の身体を洗い、写真を撮る。

 空虚な存在は、人を惹きつける。波多野伶奈が作り出す、現実から乖離したかのような硬さを持った表情や声にはvulnerableな脆さや儚さがある。手を差し伸べたくなる一方で、支配的な欲望・暴力的な欲望も駆り立てられる。その両方の気持ちに応えるように、舞台美術のビニールのカーテンが、「なおみ」を守るように閉じられ、時には少し覗かせるように開かれる。

劇作家 オノマリコ氏 劇評
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「譲治」は、パパ活のパパのような(つまり買春者のような)身勝手さで、「なおみ」を自分のお気に入りのお人形のように扱い、教育のためと勉学を押し付ける。「なおみ」は、自分の空洞と戦いながらも、上手なお人形でいようとする。しかし、譲治の思うように教育の成果が出ず(そもそも、勉強のやり方がわからない子供に自習ができるわけがない)、上手なお人形でいられなくなると、彼を支配することで居場所を保とうとする。

 と、ここまでは『痴人の愛』に沿って演劇は進む。作者のこだわりが発揮されるのはここからだろう。「ノラ」の登場によって、視点は変わる。それまで、「譲治」目線、あるいは大人の「なおみ」目線で進んでいた物語に、18歳になった「なおみ」の目線が加わるようになる。「ノラ」(俳優:齊藤莉々香)は、鎌倉の海岸で出会った、自分に自分で名前をつけて、仕事をしている少女である。名前はもちろん、イプセンの『人形の家』の主人公に由来している。一緒に遊ぼうと誘う「なおみ」に、ノラは「仕事に行かな」と返す。遊んでばかりの「なおみ」を羨む様子もない。「ノラ」がなぜ通名を使っているのか、詳しいことは明かされないが、彼女はその名から自信や強さを受け取って居るようである。そしてそのすぐ後、「なおみ」もまた自分自身が何者であるのか決めることとなるのだ。鎌倉で複数の男性と会っていたことが「譲治」に見つかり、「お前は肉だ」「醜い肉塊だ」と罵倒され、宿泊場所を追い出された「なおみ」は、自分自身をこう名付ける。「ただの肉」だが「上等な意思をもった肉」であると。

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 人形のようだった少女が、人間であることを始めた瞬間である。彼女はその後、自分の中の空洞を、他者の承認や譲治からの愛で埋めようとしていたと「ノラ」に語る。しかし満たされることはなかったと。そうして居る場所を失った彼女は「ノラ」と暮らし始める。肉体関係を結ぶことは拒否され、ただの居候として「ノラ」の家に住む。ここからは「ノラ」との対話と生活に時間がさかれる。それはゆったりとしていて、ややすると退屈で、しかし、現実に人を救うのはこのような時間だ。格別に事件の起きない、退屈な生活の時間。そしてその中に身を置くことで、自分の空虚さと向き合うことが可能となる。

 「ノラ」がおそらく性風俗店で働いていること、母親を看取った経験があること、暴力をふるう父親から逃げ出してきたことが観客に明かされる。「家族って呪いだよね」と彼女は語る。「なおみ」もまた、家族の中で愛を感じることができなかったと語る。自分たちの中の空洞に、なんとか底を作って、穏やかで楽しい時間を一滴ずつほとりほとりと、彼女たちは積み上げていく。劇的なシーンではない。前半の『痴人の愛』のパートの方が、演劇のドラマとしては目を引くだろう。しかし、人間は変化するし、肉体も精神も元に戻ることはないが回復はする。「譲治」がただお金と教育を与えて失敗した「なおみ」の人間としての成長は、淡々とした日々の中での友人との暮らしによって成し遂げられる。

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「私は結局、暴力や貧困、さまざまな形の負荷と対峙した(している)少年少女の精神活動に関心があるのだと思います。」

これは、今作のフライヤーに掲載されていた結城の言葉だ。今作では「ナオミ」という文学上の悪評高い有名人物をモチーフにして、家族によるネグレクト、年上の男性による自分勝手な愛情による受難を描き、彼女の独立と自立までを導き出した。

暴力を受け続ける日々も、傷からの回復も、現実では長い時間の中行われるもので、短時間の演劇で表すことは容易ではない。しかし結城にはこれからもその関心のままに、表現手段の数を増やし、作品を生み出してほしいと願う。格闘した日々の中にも、乖離していた日々の中にも「わたしはいた」と宣言するラストシーンは清々しい。一人の人間が成長し、飛び立つ姿を見せてもらった。

「Beside U:わたしいましたわ」 観劇報告書

 

2021年10月17日

池田ともゆき

 

結城真央氏の作・演出で新宿眼科画廊にて上演された芝居「Beside U:わたしいましたわ」を2021年10月10日㈰、12:00開演を観劇いたしました。

 

公演の観劇報告の視座はまず戯曲研究と演出手法研究に大きく分けられますが、今回は筆者が結城氏の学ぶ空間演出デザインの指導者であることもあり、主に演出手法ならびに空間演出についての視座よりの報告をいたします。

 

上演された場所は、東京都新宿区新宿5丁目18−11に所在する新宿眼科画廊の地下一階の「スペース地下」という場所で、結城氏はギャラリーとしての使用も芝居の上演も可能な、フレキシブルな約11m×3mほどの長方形のホワイトボックスの内部に、約6m×3mの舞台空間と約5m×3mの観客席空間を設定し、座席数20席ほどの小劇場空間を作り上げていました。

 

まず、最初に舞台空間について説明をいたしますと、その舞台空間には前方と後方と大きく2つの演技エリアが設定されており、前方の演技空間が舞台空間全体の約8割、残りが後方の演技空間として設定され、前方の演技空間には立方体の装置が設置され、立方体の奥の演技空間には、木製の脚立状のオブジェがひとつだけ設置された舞台空間でありました。

舞台美術家 池田ともゆき氏 観劇報告書
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舞台装置を具体的に申し上げますと、舞台空間の前方にある立方体は、約1.8m四方(畳2畳分)の床面積を有する移動可能な装置で、4隅から立ち上がる4本の柱とそれらを上部で結ぶ梁が材木で組まれ、梁には開閉可能な半透過の布素材がカーテンとしてあり、観客は、カーテンが開いた状態では立方体装置の内部を素通しで観ることが出来、また、それを閉めると立方体の内部で演技をする演者の動きが半透明な布越しに朧げに認識できるような空間演出デザインがされていました。

 

物語の内容は、谷崎潤一郎の「痴人の愛」の主人公として名高い「ナオミ」にその題材を取り、現代のナオミが成長する軌跡を、物語の前半を「なおみと譲治」、後半を「なおみとノラ」の関係を主軸として上演時間70分の中で語られた作品であります。

 

その上演内容を立体化させた特徴的な演出手法は二点見受けられます。第一点は、立方体装置に「なおみ」の居る部屋の意味と、彼女の精神が依存する場所という役割が与えられ、「なおみ」に関わる人物はその立方体装置に出入りすることで物語は進行する、という演出方針(ルール)が観客に提示されたことと、第二点は、戯曲上役名を与えられていない俳優を舞台空間の後方にある脚立の場所を中心にひとり存在させ、そこから彼女に物語全体を俯瞰する役目を演じさせたという手法でした。

 

これら二点の演出手法は、今回の上演された場所のような、ひとつの劇空間でいくつかの場所を観客に表現・説明しなければいけない小劇場の場合、観客にあらかじめ演出上のルールを共有してもらうことで、登場人物の行動や精神状態を想像し易くしていただくための手法としてとても有効であり、特に役名のない存在を登場させる手法は、それが誰か?という観客の問いをさて置いても、観客にその空間で演じられている行為を冷静に見つめる他者の視点を提示することで、虚構の中にもうひとつ虚構を投入し、そこに新たな現実感が生まれるという「異化効果」をうまく生じさせ、「みるみられるの逆転」を利用した演出手法でありました。

 

最後に、舞台空間を演出する空間演出デザインの手法について説明いたしますと、特筆すべきは二点ありました。第一点は、本作品の空間演出デザインでは、場ごとに立方体の位置を回転させたり、移動をさせたり、カーテンを開閉させたりすることによって、戯曲に指定された時間の経過と場所の変化がスムーズにかつ効果的に表現されていたことであり、そして第二点目は、小劇場での公演の場合、とりわけ上演時間を通して装置が固定された舞台空間では、自ずと登場人物の感情の流れを表現することは俳優の演技にのみ委ねられることが多くなるのが自明ですが、本作では、立方体装置が移動や回転する変化の動きによって、登場人物の移り変わる不安や寂寞とした感情など、心情説明を俳優の演技と共に視覚的に観客に提示しようとする空間演出デザインの試みが功を奏しており、いわゆる「俳優と共に装置が芝居をした」といわれる極めて優秀な空間演出デザインが表現されておりました。

以上

 

 

以上を持ちまして簡素ながら「Beside U:わたしいましたわ」観劇報告書といたします。

結城真央氏の創作姿勢は素直で探求心に富んでおり、まだまだ深化と進化を止めることは想像しがたく、担当指導者としては次回作を期待し切望する次第です。

 

文責:池田ともゆき

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